佐々木蔵之介『マクベス』

佐々木蔵之介さん主演の『マクベス』を、森の宮ピロティで観劇しました。
17世紀の初めに書かれたシェイクスピアの悲劇『マクベス』を、現代を舞台にし、1人20役の、ほぼ一人芝居に仕立てたものです。11世紀のスコットランドが舞台(当時は、イングランドとは別の国)。国王を暗殺し、自分が王になろうとした武将マクベスの野心と運命。

ほぼ一人芝居、というのは、あと二人、男性一人と女性一人が出てくるからなのですが、彼らにはほとんど台詞はなく、99%の台詞は一人で話しています。

これはスコットランド・ナショナル・シアター版『マクベス』と呼ばれるもので、スコットランド国立劇場が2012−13年に、アラン・カミング主演、ジョン・ティファニーアンドリュー・ゴールドバーグの演出で制作、上演した舞台です。それを、美術、衣装、照明、映像、音響もオリジナル版のまま使い、オリジナル版の演出家アンドリュー・ゴールドバーグが演出を行うかたちで、日本語での上演が行われたのでした。

20人役をどう演じ分けるか、というのが大変興味深いところでした。俳優佐々木蔵之介のデフォルトの存在(unmarked)が「成人男性」としてあり、それがマクベス。これに対して、周りのキャラクターには、なにかしらの特徴づけがされる(marked)わけです。

たとえば、男性対女性。
マクベスマクベス夫人のからみは、これはもう、この芝居の肝といってもいいところで、ここが熱演でした。日本語は、男性の文体と女性の文体が語尾などが違うので、そういう意味で演じわけやすいといえます。ただ、それに加えて、「野心的なマクベス夫人」と「用心深い、及び腰のマクベス」という対比は、一般に男女のジェンダーに結び付けられることが多い性格と逆になっている部分もあり、そのあたりの演じ方が大変おもしろかったです。小道具としてタオルを使っていて、全裸の俳優が上半身下半身ともに隠すのが女性(マクベス夫人)、下半身だけ隠すのが男性(マクベス)という使い分けになっているのですが、それが混線してくるところがまたおもしろい。

そして、老人と子ども。
男女の違い、とならんで、文体的に演じ分けやすいのは、年齢による違いです。
老人と子どもは、台詞の文体が成人男性と対比されやすく、わかりやすくなっています。スコットランド王ダンカンが老人文体で話し、また、ダンカンの息子や貴族マクダフの息子は子ども言葉で話しています。もちろん、身振りも老人や子どもの特徴をだし(老人は所作がゆっくりなど)ていますし、声色も違います。

こうした、属性による文体特徴は、「役割語」の概念を使って考えるとわかりやすいですが、さて、スコットランド・ナショナル・シアター版の英語ではどうなっていたのでしょう。興味深いところです。

残る難関は、成人男性の演じ分け。
たとえば、マクベスといっしょに魔女の予言を聴くバンクォー。
戯曲のなかでは、バンクォーが気高い、より王にふさわしい人徳の持ち主であるように描かれていますが、演出の上ではバンクォーはリンゴを小道具にしジャグリングのようにもてあそぶ陽気な性格としてあらわされており、内省するマクベスと対照的です。

こうして見て行くと、マクベスと同じように、「デフォルトのunmarkedな成人男性」としてでてくるのが、もうひとりマクダフであることに気づきます。マクダフは、マクベスの野心を見ぬき、ダンカンの息子マルコムとともにイングランドに逃れ、そのために妻子を犠牲にすることになります。ある意味でマクベスと同じように、自分の野心のために何かを犠牲にしたわけで、マクベスと裏表をなす人物です。そのことが、「演じ分けにおいて特徴づけられていない様子」から浮かび上がります。

実は、二夜連続で見に行きました。一夜目は、ただただ息をのんで夢中で観劇し、二夜目は、細部を味わいながら見ました。芝居って本当にいいですねー、と思った私の今年の夏休みのハイライトでした。(それにしても、一度では気がすまなくて二度目もいくのに、やっぱり一度目の感動は一度目にしかない、と気づかされてしまうパラドクスー。いえそれでも行くんですが)。