英語を直さない院演習

大学院の演習では、この本↓を教科書にしています。各章の担当者を決め、英語で要約レジュメを作って、英語で30分ほどで口頭発表。そのあとディスカッションします。

Global Englishes in Asian Contexts: Current and Future Debates

Global Englishes in Asian Contexts: Current and Future Debates

 参加者の2人が留学生(台湾出身、中国出身)なので、ということもあります。最初は、授業の前半を、教科書の訳読(日本語に訳す)に使っていましたが、やはり、90分すべて英語で通すことにしました。

最初は、発表者も大変そうだし、議論もなかなか進まなかったりだったのですが、発表が二回目、三回目になるにつれ、要領がよくなり、また、参加者も英語で発言することになれてきたようで、少しずつ「院演習」らしくなってきました。

こういうやり方を進めているうちに、私のほうにも心境の変化がありました。以前は、発表者や発言者の英語をときどき直していたのですが、前回はじめて、思い切って、直さないで90分通してみることにしようと思ったのです。つまり、あくまで英語はツールとして扱う、ということです。内心では、あ、強勢(アクセント)の位置がおかしい、単語の発音が違う、文法が混線している、などと思うこともあるのですが、そこはあえてスルー。もちろん、逐一直す、というのもひとつの指導方法でしょうが、あえてそれをしない、という選択をしてみました。

けれど、英語自体は直さずに、ただ、議論の修正や論点追加などそういう点から教員として貢献する。また、事実誤認や内容的誤解、論が混乱しているところについてはその旨を指摘する。そういうところだけに専念しました。

すると、最初、ある単語を自己流で発音していた人が、議論が進むにつれて他のひとのその単語の発音を聞いて、自分でも修正しているのに気が付きました。なるほど。こういう自然な気づきや学びがあるとそれは、教師に直されるよりもしっかりと記憶に残るかもしれません。少なくとも、より自然な言語習得に近いように思います。

ゼミ参加者の英語運用能力を高めるためには、こちらの検閲機能を一時的に敢えて緩めるのがいいのかもしれません。もう少し様子を見てみて、行くいくは学部ゼミでも導入したいと考えています。