発音指導とトランスクリプション

『ALBION』復刊第56号(京大英文学会編集・発行、2010年11月発行)に、「ロンドン大学夏期音声学セミナーとトランスクリプション」というレポートを書きました(pp.129−135)。一部引用します。夏に参加したときの日記はこちらこちら

 英語の発音を教授・学習する差に、発音記号を用いて音声を書きとるトランスクリプション(transcription)はどのような役割を果たしているだろうか。この点について、2010年8月8日から20日までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London)で開かれた夏期音声学セミナー(Summer Course of English Phonetics, SCEP)の参加報告という形で記したい(129)

 SCEPにおいてトランスクリプションが重視されていることを感じたのは、特に、発音指導のチュートリアルと聴解訓練においてであった。べヴァリー・コリンズ氏の発音チュートリアルでは、まず、最初に20分で、前日に課題として出された英文パッセージのトランスクリプションを、正解例と照らし合わせて自己添削し、疑問点を質問して議論するところから始まった(130)

 聴解訓練では、講師が発音する語のトランスクリプションを行った。英語の音韻体系に従っているものの実際には存在しない単語(English nonsense words)のトランスクリプションや、発音が似た単語セットのトランスクリプションと正書法によるディクテーション、短い会話文のトランスクリプションを毎回行った。(131)

 発音教育におけるトランスクリプションの意義とは何だろうか。SCEP最終日に行われた質疑応答では質問があらかじめ受け付けられていたので、これを記して提出した。
 発音教育におけるトランスクリプションの意義とは何かという問いに、まず、ウィンザー・ルイス氏が、ウェルズ氏の見解を引用することになるが、と前置きして述べた。「トランスクリプションができなければ、どうやって正確に発音することができるだろうか」と言うのである。続いてウェルズ氏が、この見解は、自分がフランス語を学んだときの経験に基づいていると述べた。自分ではきちんと発音していると思っていたが、フランス語の音声学的知識を得てトランスクリプションを確認したときに初めて、それまで自分のフランス語の発音が間違ったところを目指していたことがわかった、と言った。最後に、コリンズ氏が「ヘンリー・スウィート(Henry Sweet)は、音声学は言語研究にとっての不可欠な基礎(indispensable foundation)であると記したが、この言い方を借りるならば、トランスクリプションは音声学にとっての不可欠な基礎だと言える」と言った。いずれも、目標言語の音韻体系、音声特徴の理解のためにトランスクリプションが重要であり、それが正確な発音の基礎になるという考え方である。(pp.132-33)

 このほかに印象的なコメントとしては、アシュビー氏が聴解練習で述べた、「トランスクリプションは受動的な作業ではなく、さまざまな可能性のなかから、候補を作り出す過程である」というものがあった。このような見解が説かれること自体が、トランスクリプションは受動的な作業である、という見方の存在も示しており、二重に興味深かった。
 一方、「発音教育―教師はどのように学習者の英語発音改良をサポートすればよいか」について講義を行ったジェイン・セッター氏(レディング大学)は、音声教材、インターネットサイトの活用を重視しており、トランスクリプションについては講義中に言及しなかった。フロアからの質問で尋ねられたときに初めて、「学習者がトランスクリプションを利用できるレベルに達していたら活用するべきであるが、そうでない場合は、怖気づかせることがあるので、正書法の綴り字表記を使って音声を示したほうがよい」と答えた。UCL音声学科初代教授ダニエル・ジョーンズ(Daniel Jones)のEnglish Pronouncing Dictionaryの現在の改訂者の一人であり、トランスクリプションに注力しているセッター氏が、発音学習においては学習者のレベルに応じた利用を説いたことは、トランスクリプションを「音声学の不可欠な基礎」と見なす見方とは異なる観点を示しており、興味深かった。(p.133)

 なお最後に、トランスクリプションによる音韻体系の理解の強化が、実際の発音の向上に具体的にどのように結びつくのかについては、筆者自身まだ十分に理解できたわけではないことを記しておかねばなるまい。
 トランスクリプションにおいて機能語の弱形の使用に注意を喚起したあと、コリンズ氏は、「トランスクリプションで学んだこれらの弱形が、やがて、あなたたちの発音にも移っていく(transfer)ことを願っている」と述べていた。しかし、実際にその転移がどのように行われるのかは、詳述されなかった。コリンズ氏が、インゲ・ミーズ(Inger Mees)氏との共著Practical Phonetics and Phonology: A resource book for students(2003, 2008, Routledge)において、音素レベルのトランスクリプションを導入しているのは、音素と異音、連結した発話での弱形の使用の解説の後で、調音器官、調音方法の説明の直前である。しかし、そこでも、トランスクリプションと実際の発音のあいだの具体的直接的な連関は明らかにされてはいない。
 外国語の発音が母語のそれとは異なり、意識的に調音されるものである以上、トランスクリプションによって意識化された音声特徴は、実際の発音にも表れるのであろう。それがどの程度、どのように表れるのかについては、今後、筆者自身の発音実践において、また、研究教育過程において追跡していきたい。(p.135)