『英語と移民―在米日系移民の映画受容とアイデンティティ』

『映画と移民―在米日系移民の映画受容とアイデンティティ』(板倉史郎著、新曜社、2016年)を読みました。「二十世紀前半のアメリカに生きた日系移民たちと、二十世紀にもっとも大きな社会的影響力をもつメディアであった映画との関係性を、日系人たちのアイデンティティの構築と変容という点から分析」(189)した研究書で、資料性も高く、私にとっては知らないことばかりというかんじでたいへん興味深く読みました。大部の専門書のレビューは私の手にはあまるので、目次の紹介と、自分の関心とつながるところを書きぬきぬいておきます。

まず、目次は以下の通り。
第一部 「映画と移民」研究の居場所 
 第一章 国民国家の枠組みを超えて / 第二章「同化」物語からの解放
第二部 日本人移民による日本映画受容 
 第三章 1910年代のアメリカにおける日本映画上映 / 第四章 1920年代における日本映画所英の多元的機能 / 第五章 1930年代の日本映画上映運動と「人種形成」
第三部 日本映画フィルムのゆくえ
 第六章 真珠湾攻撃以降のアメリカ政府による日本映画接収  
第四部 日本人移民による映画製作
 第七章 1910年代の日系移民による映画制作 / 第八章 日本語トーキー映画『地軸を廻す力』と<真正な>日本語



自分の関心にひきつけて特に興味深かった箇所について引用します。

第七章 1910年代の日系移民による映画制作
アメリカにおける「外国語」映画制作は、ハリウッドが『ジャズ・シンガー』(1927)を製作して本格的なトーキー時代の到来を告げたときに活性化した。映画にサウンドが付随するようになると、各エスニック・グループは<われわれ>の言語が聞こえてくるトーキー映画の制作を積極的に試みたといえる。」(157)
この章には「アメリカで制作された英語以外の言語による映画作品数(1911-1945)」(表7 p.157)や「日系人が製作した映画作品リスト(1912-1965)」(表8 pp.162-3)もあります。



第八章 日本語トーキー映画『地軸を廻す力』と<真正な>日本語
 この章では、第1節で日本語のトーキー映画『地軸を廻す力』がアメリカで1929年に撮影、1930年に上映された制作と興行の経緯が一次資料をもとに丁寧に論じられています。第2節「トーキー初期におけるハリウッドの世界戦略」は、1929年という時期に日本語トーキー映画が作られた拝啓、映画史的コンテクストを説明するものです。つまり、サイレント映画がトーキー映画になったことで、ハリウッドは「各国が自国のトーキー映画を製作しはじめると、これまでハリウッドが築き上げてきた世界市場を大幅に失ってしまうのではないか」(182)という危機感におそわれ、「複数言語ヴァージョン」(multiple language versoin)の映画製作を始めた。ひとつの映画を英語版だけでなく、同時に別言語版も別の俳優たちで作る、というもので、1929年から1931年にかけてのこと。でも、製作費がかさんだため、「わずか数年で複数言語ヴァージョンの流行は終わり、より簡易な「吹替版」(俳優は共通で、サウンド・トラックのみ各国語版を作成する)の製作へと移行した」(182−3)というのです。
 数年間の複数言語ヴァージョン製作という事象が、大変興味深く、技術革新とともに映画製作が変わっていったことを改めて考えました。