村上春樹を読んだ頃

村上春樹ノーベル賞受賞を逃して、残念だったなー、とは思うものの、まあ、自分にとっては、これまでの人生のなかで、パーソナルな思い入れを持って読んできたことのある小説家なので、そういうひとがいきなりノーベル賞作家になるのは、ちょっと違うかな、というか、別にならなくてもいいよね、という気もする。

きっと、村上さん自身も、村上春樹ファンのひとも、ノーベル賞を期待されながら取れない、という状態から春樹さんが解放されることを願っているんじゃないかな、と思ったりする。賞を取ることが、一番の近道だと思うから、とりあえずは、とれるといいなと思っている、というかんじだろう。でも、本質的なところでは、ノーベル賞なんてどうでもいい、というのが「正しいファン」のありかた、と思ってるひとも結構いるんじゃないのかな。

今読むと、主人公のアルコール依存気味で大学長期欠席なところが気になってしかたない『ノルウェイの森』は、学生時代のベストセラーで、友達とあれこれ語り合った記憶がある。「男に都合のいい女しかでてこない」とコンパの席で言ってた女性の先輩がいやに大人に(そしてつまらないひとに!)思えたか、とか。そういう自分の(beforeフェミニズム覚醒な)感じ方こみで覚えている。

最初に村上春樹を勧めてくれた文学部同級生男子は、『風の歌』『羊男』や『ピンボール』が好きで、たしか、黄色い講談社文庫を貸してくれたのだけれど、正直、あまりおもしろいとは思えなくて、大人っぽい趣味だなーと思った。

はじめて、いいなと思ったのは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』。これは、大学生協の書評誌「綴葉」に、書評が出ていたのを思い出す。(ちなみに、自分でも院生のころに、この書評誌に、「春樹とばなな」といったくくりで揶揄する書評ばっかり載せるのはやめよう、みたいなことを書いた覚えがある。だけど、基本的にそういう「軽い」作家扱いでしたよね、当時w)

ダンス・ダンス・ダンス』もリアルタイムで夢中になった。『遠い太鼓』は、文章読本として、また、40歳は戻ることのできない転換点なのでそれまでに何事かをなしとげなければならない、という呪縛の書として、何度も読んだ。

短編小説では、『回転木馬のデッドヒート』(1985)がすごかった。双眼鏡で彼女の部屋をのぞいてくらしている男子学生の話(「野球場」)とか、スポイルされきったテニスサークル女子の話(「今は亡き女王のための」)。これはまた読み返してみようと出してきたところ。

最初に違和感を感じて、私のなかの村上離れのきっかけになったのが、『国境の南、太陽の西』。主人公を去っていった女性たちの不幸になりかたが、理不尽すぎる、と思った。留学先に遊びにきた家族にわざわざ持ってきてもらったのに(beforeアマゾンの頃)

小説から振り落されたのは『ねじまき鳥』(1995)。『カフカ』も買った(2002)。『1Q84』(2009)はまだ最後まで読めていない。

一方で、『シドニー!』(2001)の有森裕子論にはとても共感したし、今も読み返す。翻訳『グレート・ギャツビー』(2006)も、この翻訳がでなかったらずっと読まないままの小説だっただろう。『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007)に結実したような、ランニングエッセイがが今の自分に与えている影響はいうまでもなく。とまあ、ざっと書いてみただけでもこれくらいはあって、このほかにも、外国語関係のエッセイにも影響を受けたと思う。

いやいや、つらつらと書いてきたけれど、まあ、これくらいの影響を受けている読者は本当にたくさんいて、若い頃に村上春樹が好きで、その後も読んできたひと、というのは何かしら語りたいことがあるだろう。国民的作家、っていうのはそういうことだろうと思う。

ノーベル賞の季節のたびに、そうした、かつての&今の村上ファンが、ちょこっとずついろいろ思い出すんだろうな。まあ、負け惜しみでもなく、またこんなこと、わざわざいうのもかなり野暮だが、敢えて言うと、別にノーベル賞はとらなくてもいい。

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)