『医者のジレンマ』観劇の2年後

2014年3月に開催された日本バーナード・ショー協会の作品研究会で、『医者のジレンマ』について発表しました。その発表に関連して書いた文章が協会のニュースレター、『GBS』37号に掲載されました。

http://www.wakayama-nct.ac.jp/gakka/ippan/ippan-staff/morikawa/GBS_Japan/GBSindex.htmのウェブサイトでは『GBS』のバックナンバーも公開されています。

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『医者のジレンマ』ナショナル・シアター公演(2012)
Doctor’s Dilemma at National Theatre 2012.

2012年夏、ロンドンのナショナル・シアターで『医者のジレンマ』が上演された。ナディア・フォール(Nadia Fall)の演出で、主人公の医師リジョンをアーデン・ジレット(Aden Gillett)、画家デュービダットをトム・バーク(Tom Burk)、その美しい妻ジェニファーをジェネヴィーヴ・オライリー(Genevieve O’Reilly)が演じた。
私はその8月にマチネーを観劇したときの感想をブログこんなふうに書いた。
「…医師仲間のひとりが、ハリウッド映画でもよくみるマルコム・シンクレア。よくしゃべる陽気で軽薄な成功者タイプで、なかなか場をさらっていました。…ストーリーとしては、歴史的コンテキストにおいてみないと、ちょっと理解しにくいというか、おもしろさの感じにくい話であるように思いました。『ピグマリオン』では、音声学者の仕事というのが極端に誇張されて描かれていて、そこにおかしさがあるわけですが、『医者のジレンマ』では医者という仕事の世俗的なところがデフォルメされ誇張されていています。…」

恥ずかしながら、舞台を見る前に『医者のジレンマ』を読んだことはなかった。それどころか、あらすじもよく知らずに観劇した。そのために、このような感想をもってしまったようだ。

今回作品研究会で報告するにあたり、『医者のジレンマ』の戯曲を読みながら、演出家、俳優インタビューの宣伝用動画を動画サイトで視聴した(“The Doctor's Dilemma interviews” https://www.youtube.com/watch?v=ERdFfxYZVV4)

興味深かったのは、演出家ナディア・フォールのインタビューのなかで彼女がこの芝居をNHS(国民保健サービス)と関連付けていることだった。なるほどこのように、この劇を今日の社会とつなぐのか、と思った。

「この芝居は100年も前のものですが、非常に身近に感じられますし、非常に同時代的なものと感じられます。そこがこの芝居のよいところだと私は思います。NHSは無視できないものです。私たちがどのような政治的立場に立っていようとうとも。私たちはNHSを大事にしてきたのですから。この芝居がそのことを思い出させるならばよいと思います、また、私たちがNHSをめぐる政治に関わるきっかけとなってくれればよいし、NHSというこの特別なものを失ってしまう可能性についても考えるきっかけになればよいと思います」とフォールは語っている。

NHSとはイギリスの国営医療サービス事業で、1948年に設立された。自己負担は少額または無料である。しかし、保守党政権下で公的医療費が削減されたことが一因となり、待ち時間が長く病院が混雑しているという事態がおき、サービスの低下が問題視されるようになった。今日では高額の治療費を払ってでも、快適な民間医療サービスを受けたいという人も多く、NHSの改革や維持は現代イギリス社会において、大きな関心事となっている。

100年以上前に書かれた芝居の意味を、歴史を超えて21世紀の観客に伝える方法として、演出家がNHSを持ち出しているわけである。もちろんこれは、ショー自身が医療改革を切望したこと、イギリス社会保障制度の土台を作った1942年の『ベヴァリッジ報告書』を歓迎したことと無関係ではない。公費負担の国営医療サービスNHSは1948年に開始される。

ナショナル・シアターの『医者のジレンマ』公演は、演出家・出演者インタビューだけではなく、1分弱の予告編も動画サイトで視聴することができる。( “National Theatre: The Doctor's Dilemma trailer” https://www.youtube.com/watch?v=5CPEAAwZkts)。トレイラ―は、ジェネヴィーヴがリジョンに「夫を救ってください」と頼みリジョンが「一人を救う代わりにほかの誰かを見殺しにしろというのですね」という1幕の場面から始まる。そのあと、医師が画家に「お前はろくでなしだ」と言っている3幕の場面が続き、最後に別の医師から「命の救い主である君は、誰を救うことにするのか」と尋ねられてリジョンが「ジレンマだよ、ジレンマだ」と答える場面で終わる。最後の場面は2幕のふたつの台詞を組み合わせている。このトレイラ―を見ていると、『医者のジレンマ』は20世紀初めの医療の在り方に疑問を投げかけ医者の倫理を問う、『白い巨塔』のような芝居にも見える。まさにフォールのいうNHSへの問題意識と呼応している。

このように観劇の1年半後にインタビューやトレイラ―を見て復習してみて、全体的なテーマがよりクリアに理解することができた。今同じ舞台を見たなら、もう、「歴史的コンテキストを知らないと楽しめない話」とは思わないだろう。

ただ一方で、戯曲を読んでいると、ちょっとした会話のくすぐりや、画家への苦笑いなども思い出される。医療制度の問題点というひとつのテーマではまとめきれない魅力があったとも思う。