『長崎戦没学友追悼文集』

福島第一原子力発電所の事故のニュースを見聞きする日々のなかで、長崎で被爆した祖父山口龍夫のことを思い出しています。祖父は、鹿児島の第七高等学校造士館(七高)のドイツ語教師として勤務していたとき、学徒動員で工場の労働に派遣された生徒を引率して長崎に赴任しました。そして、1945年8月9日、原爆に遭いました。

そのときのことを綴った文章が、1946年に発行された『長崎戦没学友追悼文集』に収められていることは、高校生のときにこの文集を自由研究課題にしたときに知りました。けれど当時の私は、その意味をあまり深く考えることはなく、この文集のこともその後読み返すことはなくなっていましたー。

しかし、この頃になって、原子力について、放射能について、被爆について、考える機会が増えてきました。そうして、そんなときに、この文集が今はネットに全文掲載されていることを知りました。(→こちらです)。

およそ三十年ぶりに読み返した祖父の文章(→こちら)は、わたしが思い出のなかで描いていた祖父のイメージとは全く異なっていました。私が覚えているのは晩年の祖父の様子で、それはたとえば、竜安寺近くの家に遊びにいくとなぞなぞ遊びをしてくれた、怒りっぽく祖母の名前を呼ぶ、度の強い眼鏡をかけ着物を着て煙草を吸っている姿です。この文章を書いたときの祖父は、今の私よりも若く四十歳になった直後だったわけです。そういう年の教員が、旧制高校生を連れて、長崎に行き、原爆に被災したー。以下、引用します。

「追憶」 山口龍夫 (『長崎戦没学友追悼文集』第七高等学校造士館編 昭和21年7月発行)


ビキニ環礁原子爆弾実験の記事が紙面を埋め尽してゐる新聞を手にして寝転ぶ。罷災の身に道具類も僅かだが其等が雑然と周囲に並んでゐる。
間借生活の気兼ねから窮屈に戸障子を閉め切った室の中はなかなかに暑い。原子爆弾といへば、今こうしてゐる室は何か蚕棚《生徒諸君は長崎西郷寮の段々に仕切られた室をそう呼んでゐたやうだが》を憶はせるものがある。荷物、書籍の混乱の中に夜勤を待ったり、或は疲労の為に寝転んでゐる裸体、あの生徒諸君の身体と自分の身体とが、ともすれば仮睡せんとして意志的統一を失ひかけた頭脳の中で或は分離し或は融合する。


出島のオランダ館の跡、大浦、浦上の天主堂、異国風の家並など長崎の町は美しかった。上杉藩から私の祖父が蘭学修業に長崎まで出向かされた事などを幼時、祖父から聞かされてゐただけに長崎に派遣された事は私の大きな喜びだった。一緒に行かれた中村教授に「長崎が焼けぬうちに見るべき場所は見せて下さい。」と冗談みたいに言ったものの山に囲まれた西郷寮は、空襲に対して比較的安全感を与へてくれた。


爆撃、焼夷攻撃に対して厳重警戒するやうに生徒諸君に指示はしたものの、内心では第一弾は絶対に西郷寮には落ちない、逃げる時間は充分にあると安心してゐた。生徒諸君も同じ考だったとみえて、空襲警報の下に滅多な事では待避せぬぞと室の中に腰を下した面魂は相当なものだった。
が、兎に角このやうな心の余裕を持ち得る寮で、若く清らかな人達と生活出来る事は嬉しいことだった。鹿児島から長崎に来たら、いらいらした気持が鎮まりましたと他の学校の生徒たちによく話したほど私は長崎の町と生徒諸君の雰囲気を楽しんでゐた。


七月末から八月初にかけて数回の爆撃が長崎に加へられた、我々は次に焼夷攻撃の来るべき事を予測しお互ひに戒めあってゐた。而るにそれが予想しなかった原子爆弾となって現はれたのだ。八月九日の十一時前、乙機械から甲機械への広場を歩いてゐる時、どこかのスピーカーが「敵機二機島原半島を西進中」と報じたのを聞いた。その後数分、閃光と轟音とはあの美しい町と数万の人命を滅し去ったのだ。眼鏡を飛ばされて方角も見定め難く、歩行も辛ふじて出来る身体を生徒に扶けられて(この生徒の名が今になっても判明しないのほ実に残念に堪えない)西郷寮に来た時は既に寮は一面の火の海だった。


あの凄まじい情景は夢よりも恐ろしい夢である。顔面の焼けただれた人々、血にまみれながら号泣する子供等、誰が発するのか、四方から迫る呼声、火焔猛煙など、出来るならば生涯記憶の中から取除きたい地獄図であった。九月初旬に被害生徒調査に再び長崎に赴いた際、汽車が道尾から浦上に近づいた時、凄惨な情景に胸も緊められる気持で呼吸が苦しく、あわてて強心剤を服用した程である。あの寮の劫火の中で死んだ人もある。寮の前で倒れた人、運転中の自動車と運命を共にした人、私と同じ汽車で鹿児島に帰り遂に再び起てなくなった人、原子病や火傷の為に相当時日経過後不帰の客となった人など想出は尽きない。みんな好意の持てる、気分の良い人達であった、素直におほらかな人達であった。


あの悲しみの日から一年になる。御家族の方はもとより、級友、先生達の胸にも遣瀬ない悲哀が疼いてゐる。親しみあったあの人々の霊に合掌しながら、何とはなしに五歳にして死んだ長男のことを思ふ。「子供の死と原子爆弾と此の二つだけは生涯に二度と経験したくないなァ。」と沁々妻に歎息をもらすのである。

鹿児島に戻ったころの祖父の様子については当時小学校3年生だった父が「子供の目から見ても、いつ寝たきりになって、そのまま死ぬようなことになっても不思議でないと思われるほどの衰弱ぶりだったことが記憶に残っている」と後に書いています。一年くらい寝たきりだった祖父も次第に元気を回復し、京都に移り立命館大学で、ドイツ語教育・ドイツ文学研究を続け、1973年に68歳で亡くなりました。

さて今、福島の原発事故が起こり、避難している人たちについて、忌避するような差別的言動がある、というニュースを読みながら、あらためて祖父のことを思い出しています。東日本大震災からの復興のために、また、原発事故を二度と繰り返さないために、自分にとってできることは何だろうかー。と考える毎日です。まず何かできることからと思い、この「追想」を英語に訳しました(→こちら)。原子力の利用について考えるときに、ヒロシマナガサキを忘れてはいけない、と思いながら。